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関心の広さと絶妙なバランス感覚
筑紫哲也さんを悼む 柴田鉄治(JCJ代表委員) 筑紫哲也さんが亡くなって1か月余が過ぎた。近年、日本のジャーナリストの死で筑紫さんほど多くの人に悼まれ、その喪失感の大きさを論じられた人はいないのではないか。 筑紫さんと私は、1959年(昭和34年)に一緒に朝日新聞に入社した同期生だ。私たちが入社した34年組は、入社試験にいわゆる「常識試験」がなく、このため私たちは「常識がない」とよくいわれた。それを逆手にとって、私たち同期生の会は「非常識の会」と称して気炎を上げていたが、その同期生には、本多勝一さん、田中豊さん、和田俊さん、田所竹彦さんといった錚々たるジャーナリストがそろっていて「新聞記者の入社試験に常識試験はいらないのではないか」とよく話し合ったものだ。 筑紫さんも私も10歳のときに終戦を迎えた「戦中派」で、子ども心に「二度と戦争はごめんだ」と刻んだ戦争体験が新聞記者の原点だった。筑紫さんは、それに沖縄体験が加わる。 日本復帰前の沖縄は、取材体制としては外国並みで、筑紫さんは本社政治部からその沖縄特派員に選ばれたのだ。 筑紫さんにとって、このときの沖縄との出会いがその後のジャーナリスト活動に大きな影響をもたらした。沖縄の音楽や舞踊など文化に幅広い関心を抱いたのもそのひとつ。また、筑紫さんが沖縄の人たちの置かれた状況にいかに強く心を寄せ、そのような状況に追い込んだものに対していかに怒っていたか、計り知れないものがある。 筑紫さんと私が一緒に仕事をしたのは、1971年に半年間にわたって朝日新聞に連載された長期大型企画「日本とアメリカ」取材班のときだ。一緒に仕事をしてみて、筑紫さんの取材力、構成力、筆力のすごさに舌を巻いたが、なかでも驚嘆したのは、その筆力だ。取材班キャップの松山幸雄さんは、それを見抜いて、各章が終わるごとにおいた「各章のまとめと次章へのつなぎ」をすべて筑紫さんに書かせた。それは、連載記事に深みと彩を与える実に見事なものだった。 テレビでの活躍が目立ったため、筑紫さんを話し上手なテレビ人間と評する人が多いが、彼の本質はあくまで新聞記者であり、彼の筆力はおしゃべりより数段上のものだ。 彼がテレビに持ち込んだ「多事争論」は新聞のコラム記事を意識したものであり、それをみても彼は根っからの新聞記者だったことが分かるだろう。 アメリカ特派員としての活躍も見事だったが、帰国後、雑誌「朝日ジャーナル」の編集長としての活躍も、なかなかのものだった。 新聞は組織の力でつくるものだが、「雑誌は編集長のものだ」とは、よく言われる言葉で、それを実証したのが「筑紫ジャーナル」だ。「新人類」という流行語をはやらせたり、硬派雑誌にどんどん「文化」を注入したり…。 また、朝日ジャーナルの廃刊後は、本多勝一さんが立ち上げた雑誌、週刊「金曜日」の編集委員に最後まで名を連ねたことも特筆していい。 というのは、TBSの報道局長などを務めた金平茂紀氏がモスクワ特派員時代に「金曜日」に連載記事を書いたところ、上司から「ああいうところに書くのは君のためにならない」と注意され、やめたことがあったという。おそらく筑紫さんにも同じような『圧力』があったに違いないが、断乎拒否していたのだろう。 彼の朝日ジャーナル以来の「雑誌好き」もあったろうが、それより、金曜日の編集委員に名を連ねること自体が、彼らしいバランス感覚の取り方だったように私には思われる。 このことでもわかるように、筑紫さんの特質はその関心の幅の広さと絶妙なバランス感覚だったといえよう。あれだけ言いたいことをズバズバ言いながら、人から恨みを買わないだけでなく、多くの人から信頼され、また驚くほど多くの友人をもっていたのもその表われだ。その点だけでも、類稀なジャーナリストだった。 (元朝日新聞論説委員)
by ywatari4
| 2008-12-23 15:35
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