横須賀に原子力空母が配備されようとしています。
機関紙『ジャーナリスト』08年6月号に連載されている短歌欄「短歌・現代の窓」を転載します。
短歌 現代の窓 評・小石雅夫
向井 毬夫(「新日本歌人」)
馴らされて原子力空母怖れぬや〈まさか)のまさか分秒の意味
「短歌現代」6月号「横須賀にて」
活断層三本はしる横須賀に核空母来る母港とよびて
同
横須賀の丘の桜のはららくに選択肢とは軍港のみか
同
被曝せし終(つい)なる目もて湾口の月の出見んは思うに苦し
同
○
五月十六日、神奈川県横須賀市議会は、原子力空母の横須賀配備と安全性を問う住民投票条例案を否決した。これは五万二千四百十七人の署名、有権者の七人に一人が賛同する強い要求だった。
しかし昨年に続き自民・公明・民主系市議の反対で二度目の市民要求の否定となったものである。
だが皮肉にも、僅か一週間後の二十二日に配備予定の米原子力空母ジョージ・ワシントンが太平洋上を航行中に火災事故を起こし、調査・修理が長引き、安全性への重大な問題を顕在化させた。
一首目は、まさにそうした懸念の、いみじくも現実的な危険性を衝くことになった歌となった。
二首目は、また別の面からの大きな危惧も予見する。三本も活断層があるという地に核空母を母港化入港させる危険度は、近くは新潟、先日の岩手・宮城の地震発生などからも無視はできない。
三首目は、何がなんでも対米従属しか頭にない政治と為政者への批判である。上句は単なるさまざまに舞い散る花の情景なのではない。「横須賀の丘の桜…」にこめられた、つまりそこは市民のもの日本のものであるぞという喩でもあるのだ。
四首目は、万一にも原子力空母の核事故で被爆し、死にゆく目に、海にのぼりゆく月の出を見るような事態を想像してみている。なんとも怖ろしい歌なのである。
(新日本歌人協会事務局長)