『ジャーナリスト』08年8月号から、月間マスコミ評・出版 を掲載します。
自分の可能性を閉ざすな
文芸誌には、時々、総合誌を凌駕するような問題意識を秘めたエッセー、評論が載る。最近は、そういうことも少なくなった。しかし、作家の水村美苗氏の「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(『新潮』(9月号)は、広く読まれるに値するものではなかろうか。
評論の最初に、小説の作家特有の、ゆったりとした導入がある。水村氏が、なぜ日本語は亡びると考えるに至ったかが、米国のアイオワ大学に世界から集まった作家たち(英語が不得意)の描写を通じて雄弁に説明される。
水村氏は、「今、歴史が、大きく動いていることの意味を考えざるをえなかった」として、アフリカの「遅れ」を別のものに転じさせようとするかのように、英語が〈普遍語〉となりつつあり、〈国語〉〈現地語〉〈自分たちの言葉〉としての日本語が滅びようとしていると書く。後半のB・アンダーソン著『想像の共同体』への批判が冗長に感じられるほど、エピソード部分が文明批評として面白い。
志賀直哉をはじめ日本語滅亡論は目新しくない。ただし、文部科学省が、2011年度から小学5、6年生は英語を必ず学ぶことを決めたこともあり、普通の「日本人」でも何か切迫感を感じる。水村氏の評論は、そのことに触れない。が、日米同盟のもとで日本は孤立し、日本語は変わってきた側面もあるのではないかとの連想を誘われた。水村氏の夫は、経済学者の岩井克人氏。
同じく『新潮』(同)所載の短いエッセーで、作家の佐伯一麦氏が、秋葉原の連続殺傷事件の容疑者について、「自分の可能性を閉ざす思考法になったのではないだろうか」と推察している。現代日本を批評する言葉ともなっているように思う。
『アニメはいかに夢を見るか―「スカイ・クロラ」制作現場から』(岩波書店)で映画監督の押井守氏は、最近の悲惨な事件に「僕は今、若い人たちに伝えたいことがある」と危機感をあらわにし、「自分自身が不幸になるという権利を行使する意志」があれば、人生は情熱の対象になるとエールを送っている。
ただちに理解はしがたい応援歌のように感じるが、少なくとも、押井氏の言うように「今、この国に生きる人々の心の中には、荒涼とした精神的焦土が広がっている」との思いには共感する。
自分の可能性を閉ざすのは、まだ早い。
荒屋敷 宏