機関紙「ジャーナリスト」08年8月号からスポーツコラム。
総括なき北京五輪報道
北京五輪が終わったが日本のスポーツマスメディアが恒例としていた五輪全体の総括が姿を消した。総括と銘打った記事は一部に限られ、テレビも新聞も再録再掲の総集編か、競技別のまとめを報じるにすぎず、メダルを逃した代表への非難まで飛び出した。
マスメディアとしての批評性の完全喪失と言うほかない。そして、「開かれた大国になれるか」と五輪報道に名を借りた反中国キャンペーンを締めくくった。
アジア勢躍進の原因は?ジャマイカ旋風の意味は?陸上王国ケニアやエチオピアの秘密は?北京市民と世界の民衆はどう感じたか?なぜドーピングは消えないのか?米国テレビによる競技時間変更はどう影響したか?日本選手団の獲得メダル半減の背景は?
これらすべてが断片的にしか伝わらず、マスメディア報道頼りでは、ほとんど無知の日本国民におとしめられた。
世界も、五輪も、日本スポーツも、「その現状を知らしむべからず」とマスメディアが支配権力化したことを宣言する北京五輪報道だった。自由で自主的なスポーツの世界でも、日本国憲法を否定する知る権利の無視がマスメディアによって先導されている。
それでも日本国民の多くが、おぼろげながら感じとったことはある。
世界トップスポーツが米国一極集中から限りなく多極化へ進んでいること。世界はスポーツによる連帯を強く求めていること。世界から多くの学ぶべきことがあること。日本のトップスポーツがほとんど競技者の労苦と家族の支えだけで成り立っていること。しかも競技間格差がはなはだしいこと。それを国や大企業は放置していること。
そこで急ぎJCJが総括討論会を開催することになった。国民への義務を果たすためである。
1964年東京五輪で世界を開放的に見た日本国民は、40年以上を経て、偏狭な「がんばれニッポン」意識に閉じ込められる危機にある。(スポーツジャーナリスト)
FSJ通信