10月15日、JCJ出版部会の例会として 「対論『新聞と戦争』(朝日新聞出版)をめぐって」という集会が、東京・神保町(千代田区)の岩波セミナールームで開かれました。
サブタイトルは「満州事変での「朝日社論」転換の"なぜ"? 」
今年のJCJ大賞を受賞した朝日新聞の連載「新聞と戦争」の取材班の上丸洋一さんが、このサブタイトルの疑問を解き明かしながら、現代のマスメディアにひきつけた話をしてくれました。
この連載は07年4月から翌08年3月まで243回にわたり朝日新聞夕刊に連載されました。
「朝日」がこうした取材をするのは初めてではなく、91年、95年にも小規模ながら、歴史検証をしているそうです。
取材は新聞記者のやり方、人にあって話を聞くことを基本にし、誰がどこで何をし、何を考えていたかのファクトを書いたといいます。
上丸さんは歴史の流れを示しました。第一次大戦(1914~18)後、欧米列強にも戦争を反省する気運が生まれ、ワシントン軍縮会議(21年)、 パリ不戦条約(28年)と世界は軍縮の方向へ向かいます。
大阪朝日新聞は特に軍縮・普選を主張して、右派から激しく攻撃されていました。
29年に大恐慌が起こり、経済が悪化、「満州をとってしまえ」という論調が世の中に広まっていったといいます。
そして満州事変の起きた31年。8月8日の大阪朝日新聞は「軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない」と論じているそうです。
しかし、9月18日、満州事変がおきます。20日に大阪朝日新聞社説は「一局部のものとしてすみやかに解決を図りたい」と事態の収束を論じますが、9月21日に朝鮮に駐留する日本軍が命令なく国境を越えて中国に入ります。22日に、政府はこの行動を事後承認しました。
この明らかに天皇の統帥権を干犯した軍事行動と政府の容認に対して、新聞は何も書きませんでした。
この、書かない時点から、朝日新聞の社論は展開していった、というのが上丸さんの意見です。
(続く)